:映画『亡国のイージス』

語るのが難しい映画である。そこにテーマ性があるように思えるからだ、実情がどうだかは別として。そんな訳で観たのは夏なのに、今までつい放置してしまった。そういった面倒臭い事を避けて語る事も出来なくはない。「吉田栄作の演技はどうも嘘臭い」「何で某国の女スパイと敵対する自衛隊員が戦闘中にキスしとんねん」「中井貴一ってどうして固い役やるとああロボットっぽくなるんだろう」などと表面的な映画の完成度の至らない部分を取り上げてお茶を濁すというのも、まあそれはそれでアリっつーか楽なのではあるのだが、話術やら文章力やらに不自由な自分がやると何だか単に本当にこの人ったら映画を読み解く力がないんじゃないかしらあらやだわ、といった評価が下されてしまうのではないかという自らの中の妙なプライドから発せられる危惧があって敵前逃亡で銃殺刑と言うかそれなら真正面からぶつかって玉砕の道を選んでみよう。既にこの時点で挽回不可能な気も。
本作は上映前から某国のテロリストが現実の某国をモデルにして批判的に描いているという事でその某国から抗議を受けたりと何だかややこしいハプニングが起こったりとかナショナリズム発揚の話として取り上げられたりとか、つまりはそういう「国家的な意識を持って臨むべき作品」として取り上げられてきたように思う。しかしその実際として最終的に場を収めるのは、腐敗した本国での指導的立場の獲得と理想実現を達しようとするテロリストでもなく、国家の安全と機密を非合法な手段で守り続ける自衛隊の特殊部隊員でもなく、自らの「職務」という立ち位置と「守りたい者」のために戦った先任伍長である。勿論、そこに先任伍長個人の努力や結構な意志の強さがあるのは確かだけれど(矢張り、彼の行動と活躍は自衛隊員とは言えヒロイック過ぎるだろう)。そしてその先任伍長自身は舞台となるイージス艦を乗っ取ったテロリストや反乱者達のように大上段な国家論を唱える事はない。彼の行動原理はある種牧歌的とも言える日常的な生活や業務から発生し、そしてまたその延長線上から離陸しない。つまり本作において描き出されているのは、敵味方を問わず作品内の「思想犯」達の多くが「幻想」と批判するもの――そう言えば「多くの日本人は安全と水は当然タダだと思っている」とかって決まり文句があった――それ自体に、「崇高な」思想や論理に基いた行動を取る者達が敗れ去っていく姿なのだ。だから、もし本作の主題を見つけるとしたら、一足飛びに国全体を考える類のステレオタイプな国家論ではなく、日常から発する地に足を付けた国家観の必要性、とでもなるだろうか。その価値判断は別として。でも話の構造自体は結構ハリウッド作品とかにもありがちなものなので、それを生み出す某国の姿を見ると、うん、まあ何というかそんな国家像は絵に描いた餅、若しくは作品自体に対する過剰な思い込みのようにも感じられるので一気にちゃぶ台返しな気も。矢張り私には難しかったかorz
ところで私はこの作品には映画でしか触れていないため、評価自体も映画のみに対するものである。友人から知らされたところでは、映画化に当たって小説から削られたエピソードが相当にあり、しかも他の作品の続編としての性質も持っているそうなので、それらと照らし合わせるとまた評価が変わってくるかもしれないという事は確認しておきたい。