イエスタデイをうたって。

もちろんRCサクセションの方な。別に冬目景がキライというわけではない。いやむしろ好きだ! 『黒鉄』とか最高だ! 何の話しだっけ?
そうそう、今日はものすごい雨だったので普段は歩いて職場に行っているのにバスに乗って行ったですよ。アパートからバス停までとかバス降りて職場にまでとかはどうしても歩くことにはなるけれど、ちゃんと傘をさしていたわけで。なのに職場に着いた時にはズボンがバケツの水を浴びせられたみたいにびしょ濡れ。まるで傘がないかのよう。もちろん井上陽水の曲な。でも「氷の世界」とか「東へ西へ」の方が好きだ! ちょっとシュールな歌詞が最高だ! 何の話しだっけ?

永遠の企画倒れ。

大体、文章として書きたいなあと思っても発想だけ出てきた段階でそこから先に進まないものはそりゃあ大量にあって、例えばゴシックロリータの服装っていうのが原宿で流行した時期からどのように秋葉原に伝染していったのかを考えると結構面白いんじゃないか、というのはずいぶん前に着想したことではある。原宿におけるゴシックロリータファッションは基本的に女性が自ら身に纏い同じ文化に属する女性の間で共通文化として発展していったが、秋葉原的ないわゆるオタク文化に受容される中では明らかに男性の視線が入ってくるわけで、フェミニズムの視点からその変遷を丁寧に追っていったらかなりボリュームのある論が組める感じがするのだけれども残念ながらそんな根気が続くほどゴシックロリータの文化に思い入れがあるわけでもなく出来ることなら誰か書いて読ませてくれないかなあ。
そういや大学院の頃にお世話になった先生が、西洋服飾史研究の延長線で日本における服飾受容の系譜としてのゴシックロリータを取り上げようとしているという風の噂を聞いて全米震撼な感じだったが、結局オチがどうなったのかは不明なまま。

:コミック版「トライガン」シリーズ完結に寄せて。

これまた今更かよ、と言われそうですが。
率直に言えば、エンディングに向けて描かれる課題はアニメ版とほぼ同じなのだ。というか、それはこの作品自体が当初から抱え続けているテーマの延長線でもある。
トライガン」シリーズの根本的なテーマは、無法の吹き荒れる世界において、凄腕の優しきガンマンが人を殺すことなく事態を収拾していくことである。ヴァッシュ・ザ・スタンピードという主人公は、人を殺さずに事態を切り抜けるべく、我が身を捨てて研鑽を積み、相手を捻じ伏せ、また哲学を語り説得する。その姿は確かに崇高ではあるが、では彼の力が及ばなかった時、どうしても殺さざるを得なかった時、彼はどうするのか。連載中ずっとずっと彼に突きつけられながら彼がずっと回避し続けた――意地悪く言えば、逃げ続けていた――課題が、遂に彼の前に立ち現れる。それは、今まで自らが「人殺し」という罪を背負うことを力業で押し退け、その一方で一般の力なき者たちの背負う「人殺し」の罪を容認することを決してしなかった主人公に課せられた、初めての罪だ。
アニメ版『トライガン』において、ヴァッシュはこの課せられた罪を、嘗て自らの愛した女性=レムの言葉一つによって一瞬で乗り越えてしまう。だが、それは単に盲目の信仰であり、自らの罪に対する免罪符を得たに他ならない。私自身がアニメ版を評価できないのはこの部分への違和感であり、それ以外の部分では話の作り方等も含めて相当にクオリティの高い作品であったため惜しまれてならないとずっと思っていた。それ故にコミック版のクライマックスの描き方には、二の轍を踏むのではないかというある種の危惧を感じていたのだが、どっこいその危惧は杞憂に終わった。
コミック版のラストにおいて、自らの罪への苦悩に閉ざされたヴァッシュ・ザ・スタンピードの意識は、サブ・キャラクターのメリル・ストライフの印象的な台詞によって、再び人類を救うための戦いに向けて覚醒する――「ヴァッシュ・ザ・スタンピードの戦いっていうのは」「何一つ終わりにしないって足掻くことだから」(『トライガンマキシマム』第14巻、p135)。そして彼の戦いを最終的に救うのは、他ならない彼が人の一生を軽く超える長い長い時間をかけて培ってきた人と人との関係なのだ。人々はヴァッシュの記憶を通じて、過去には搾取を続け現在は恐怖の対象となってしまったプラントとの意思疎通を可能とする。ヴァッシュ自身の罪は、ここで容易に解消されることはない。だが、彼の150年間の努力と理想こそが何より認められる瞬間だ。罪の残留と理想の実現、この複雑な同居が作品の感動を何より深くしている。
少年キャプテン版の『トライガン』から12年。なかなか新刊が出なくてやきもきすることも相当あったが、コミック版「トライガン」シリーズは、その年月に相応しい、RysKとしては文句のない作品に仕上がっていると思う。

海賊たちの夜。

最近、お仕事の方がちょっと詰まっている関係もあって、なかなか本を読む時間が取れず。西尾維新の『不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)』を読んで「きみとぼく」シリーズの批評をまとめたいのだが。って今更かよ。

:何故おっさんはPerfumeにハマるのか。

別にPerfumeに限らず、中田ヤスタカ関連作品って言い換えてしまってもいいのだけれど、敢えて限定したのはPerfumeに関するamazonのレビューが一番面白いから。
というのも、「周囲や妻や娘の反応が怖くてハマったことをカムアウトできない」という意見が多いのだ。まあ確かにいい年こいてアイドルユニットにハマった、というのはおおっぴらに言うにはかなりマージナルな事例ではあるのだけれど、それ以上に、capsuleよりもPerfumeにおいて先鋭化されているように感じられる部分は確かにあって、そこにおっさんはハマるのではないか、とも思うのである。

さて、ちょっと話を飛ばし過ぎたので元に戻そう。

これまで、様々な既存のメディアの中に、コンピューターという新たな汎用加工機械が導入されてきた。いや、それは既に機械自体に依存するものではないから、それ自体が一種の技術といった方が正しい。その技術は、それ自身が新たなメディア(例えばパソコン通信、インターネット)を作り出しもしたが、ここでは既存メディアへの関与の側面だけを考える。
コンピューターが導入された直後は、いかにもそれを使用したと思われる作品を生み出すことが一つのステータスになった。どんなところでもそうだと思うが、新技術が生まれた当初はそれを使うこと自体が新しさの象徴になるわけで、その技術を如何に惜しげなく使用するか、見せびらかすだけでも一定のニーズはある。だが、新技術が「新」足りえなくなったなら、技術が「技」から一般的なツールとなってしまったなら、そこから先はクオリティの勝負にならざるを得ない。出展は失念してしまったが、例えば押井守は嘗て映画『アヴァロン』に関するインタビューで「コンピューターグラフィックス(CG)を映画内に使用することが十分に一般化した時には、そこから先はCGと既存の技法とを如何に融合させ、CGと分からなくしつつ新たな映像を作るかが勝負であり、『アヴァロン』は、それを目指した」といった内容の話しをしていたと記憶している。
じゃあ音楽の方はどうなんだろう。日本において、コンピューターを使用しての音作り――いわゆる打ち込み――を主とする音楽が、テクノポップという形で一般へと浸透・隆盛に入ったのが80年代。YMOの登場以降のこととされている。そのストリームの中で打ち込み音に生音を乗せてヴォーカルをフィーチャーしたテクノ歌謡というカテゴリが出てくるが、その後打ち込みという技術自体が浸透するに従ってこのカテゴリは使用されなくなる*1。この分野でも、コンピューターの技術の一般化と共に、その融合点、もしくは新たな可能性の模索が始まっていく。
かなり乱暴にまとめたが、このように見た場合、中田ヤスタカの作品、特に彼の最近手がけるプロデュース作品は、この「テクノ歌謡」という既に閉じてしまったはずのカテゴリの先鋭として位置するように思う。。電子音をガッチリ前面に出し、打ち込みを誇らしげに使いながら、素材としての声を躊躇なく加工する。押井の言うような、既存の技法との融合点を模索するのとは逆に、「コンピューターらしさ」を突き抜ける限界まで突き詰めていったような、80年代のテクノ歌謡隆盛の頃の理想のサウンドが時を経て実現しているということなのではないだろうか。特に声に対する扱いについては、先に少し触れた「Perfumeにおいてcapsuleより先鋭化していると感じられる部分として、よりテクノ歌謡的側面のエッジを際立たせている。capsuleでは、こしじまとしこのヴォーカルがメインとなる曲においては声に対するエフェクトは割りと遠慮がちに、もしくは声に対するエフェクトがバリバリに掛かっている曲ではヴォーカルはサブに据えられていることが多いように感じる。しかし、Perfumeではヴォーカルメインの曲でもエフェクトがガッチリかけられていて、何だか衣のすごくおいしいフィッシュフライを食べている気分になるのである。いや別に衣がうまけりゃそれで十分いいんだけど。
とにかく、そういうフィッシュフライの名店……じゃなかった、テクノ歌謡の正当継承者の生み出す、ある種のレトロ・フューチャーな作品群。それは嘗てテクノポップテクノ歌謡にどっぷりはまった人間にとっての理想、夢の実現でもあるわけだから、ハマるのも無理のないことと推測できる。多分それは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に憧れた元・少年が車輪のないスケートボードが出てきたら年甲斐もなくそれにハマってしまうだろうこととか、21世紀はチューブの中を車輪のない車が走っているはずなのにと夢想しながら満員電車に揺られるのと同じことなんだろうから、奥さんも娘さんも、お父さんの少しばかりの暴走を多少甘い目で見てあげたっていいじゃない、ねえ。