:コミック版「トライガン」シリーズ完結に寄せて。

これまた今更かよ、と言われそうですが。
率直に言えば、エンディングに向けて描かれる課題はアニメ版とほぼ同じなのだ。というか、それはこの作品自体が当初から抱え続けているテーマの延長線でもある。
トライガン」シリーズの根本的なテーマは、無法の吹き荒れる世界において、凄腕の優しきガンマンが人を殺すことなく事態を収拾していくことである。ヴァッシュ・ザ・スタンピードという主人公は、人を殺さずに事態を切り抜けるべく、我が身を捨てて研鑽を積み、相手を捻じ伏せ、また哲学を語り説得する。その姿は確かに崇高ではあるが、では彼の力が及ばなかった時、どうしても殺さざるを得なかった時、彼はどうするのか。連載中ずっとずっと彼に突きつけられながら彼がずっと回避し続けた――意地悪く言えば、逃げ続けていた――課題が、遂に彼の前に立ち現れる。それは、今まで自らが「人殺し」という罪を背負うことを力業で押し退け、その一方で一般の力なき者たちの背負う「人殺し」の罪を容認することを決してしなかった主人公に課せられた、初めての罪だ。
アニメ版『トライガン』において、ヴァッシュはこの課せられた罪を、嘗て自らの愛した女性=レムの言葉一つによって一瞬で乗り越えてしまう。だが、それは単に盲目の信仰であり、自らの罪に対する免罪符を得たに他ならない。私自身がアニメ版を評価できないのはこの部分への違和感であり、それ以外の部分では話の作り方等も含めて相当にクオリティの高い作品であったため惜しまれてならないとずっと思っていた。それ故にコミック版のクライマックスの描き方には、二の轍を踏むのではないかというある種の危惧を感じていたのだが、どっこいその危惧は杞憂に終わった。
コミック版のラストにおいて、自らの罪への苦悩に閉ざされたヴァッシュ・ザ・スタンピードの意識は、サブ・キャラクターのメリル・ストライフの印象的な台詞によって、再び人類を救うための戦いに向けて覚醒する――「ヴァッシュ・ザ・スタンピードの戦いっていうのは」「何一つ終わりにしないって足掻くことだから」(『トライガンマキシマム』第14巻、p135)。そして彼の戦いを最終的に救うのは、他ならない彼が人の一生を軽く超える長い長い時間をかけて培ってきた人と人との関係なのだ。人々はヴァッシュの記憶を通じて、過去には搾取を続け現在は恐怖の対象となってしまったプラントとの意思疎通を可能とする。ヴァッシュ自身の罪は、ここで容易に解消されることはない。だが、彼の150年間の努力と理想こそが何より認められる瞬間だ。罪の残留と理想の実現、この複雑な同居が作品の感動を何より深くしている。
少年キャプテン版の『トライガン』から12年。なかなか新刊が出なくてやきもきすることも相当あったが、コミック版「トライガン」シリーズは、その年月に相応しい、RysKとしては文句のない作品に仕上がっていると思う。