:何故おっさんはPerfumeにハマるのか。

別にPerfumeに限らず、中田ヤスタカ関連作品って言い換えてしまってもいいのだけれど、敢えて限定したのはPerfumeに関するamazonのレビューが一番面白いから。
というのも、「周囲や妻や娘の反応が怖くてハマったことをカムアウトできない」という意見が多いのだ。まあ確かにいい年こいてアイドルユニットにハマった、というのはおおっぴらに言うにはかなりマージナルな事例ではあるのだけれど、それ以上に、capsuleよりもPerfumeにおいて先鋭化されているように感じられる部分は確かにあって、そこにおっさんはハマるのではないか、とも思うのである。

さて、ちょっと話を飛ばし過ぎたので元に戻そう。

これまで、様々な既存のメディアの中に、コンピューターという新たな汎用加工機械が導入されてきた。いや、それは既に機械自体に依存するものではないから、それ自体が一種の技術といった方が正しい。その技術は、それ自身が新たなメディア(例えばパソコン通信、インターネット)を作り出しもしたが、ここでは既存メディアへの関与の側面だけを考える。
コンピューターが導入された直後は、いかにもそれを使用したと思われる作品を生み出すことが一つのステータスになった。どんなところでもそうだと思うが、新技術が生まれた当初はそれを使うこと自体が新しさの象徴になるわけで、その技術を如何に惜しげなく使用するか、見せびらかすだけでも一定のニーズはある。だが、新技術が「新」足りえなくなったなら、技術が「技」から一般的なツールとなってしまったなら、そこから先はクオリティの勝負にならざるを得ない。出展は失念してしまったが、例えば押井守は嘗て映画『アヴァロン』に関するインタビューで「コンピューターグラフィックス(CG)を映画内に使用することが十分に一般化した時には、そこから先はCGと既存の技法とを如何に融合させ、CGと分からなくしつつ新たな映像を作るかが勝負であり、『アヴァロン』は、それを目指した」といった内容の話しをしていたと記憶している。
じゃあ音楽の方はどうなんだろう。日本において、コンピューターを使用しての音作り――いわゆる打ち込み――を主とする音楽が、テクノポップという形で一般へと浸透・隆盛に入ったのが80年代。YMOの登場以降のこととされている。そのストリームの中で打ち込み音に生音を乗せてヴォーカルをフィーチャーしたテクノ歌謡というカテゴリが出てくるが、その後打ち込みという技術自体が浸透するに従ってこのカテゴリは使用されなくなる*1。この分野でも、コンピューターの技術の一般化と共に、その融合点、もしくは新たな可能性の模索が始まっていく。
かなり乱暴にまとめたが、このように見た場合、中田ヤスタカの作品、特に彼の最近手がけるプロデュース作品は、この「テクノ歌謡」という既に閉じてしまったはずのカテゴリの先鋭として位置するように思う。。電子音をガッチリ前面に出し、打ち込みを誇らしげに使いながら、素材としての声を躊躇なく加工する。押井の言うような、既存の技法との融合点を模索するのとは逆に、「コンピューターらしさ」を突き抜ける限界まで突き詰めていったような、80年代のテクノ歌謡隆盛の頃の理想のサウンドが時を経て実現しているということなのではないだろうか。特に声に対する扱いについては、先に少し触れた「Perfumeにおいてcapsuleより先鋭化していると感じられる部分として、よりテクノ歌謡的側面のエッジを際立たせている。capsuleでは、こしじまとしこのヴォーカルがメインとなる曲においては声に対するエフェクトは割りと遠慮がちに、もしくは声に対するエフェクトがバリバリに掛かっている曲ではヴォーカルはサブに据えられていることが多いように感じる。しかし、Perfumeではヴォーカルメインの曲でもエフェクトがガッチリかけられていて、何だか衣のすごくおいしいフィッシュフライを食べている気分になるのである。いや別に衣がうまけりゃそれで十分いいんだけど。
とにかく、そういうフィッシュフライの名店……じゃなかった、テクノ歌謡の正当継承者の生み出す、ある種のレトロ・フューチャーな作品群。それは嘗てテクノポップテクノ歌謡にどっぷりはまった人間にとっての理想、夢の実現でもあるわけだから、ハマるのも無理のないことと推測できる。多分それは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に憧れた元・少年が車輪のないスケートボードが出てきたら年甲斐もなくそれにハマってしまうだろうこととか、21世紀はチューブの中を車輪のない車が走っているはずなのにと夢想しながら満員電車に揺られるのと同じことなんだろうから、奥さんも娘さんも、お父さんの少しばかりの暴走を多少甘い目で見てあげたっていいじゃない、ねえ。