フラクタルの誘惑。

例の本を貸し出してくれた友人とちょっとした、そして何度繰り返したか分からない、小説に関する議論になる。曰く、彼は哲学が嫌いだ。個人の心理描写よりも、事件や出来事自体やそれに関わる人間の行動に目を向けたい。西尾維新が嫌いなのもその点にある。曰く、哲学がどうとかは別として、私は心理描写に重きを置く。事件や出来事は舞台として欠かせないものではあるが、それを進行する人間自身の思考にこそ興味がある。多分彼と私との差異というのは、状況の中の人間を見るか、個人によって構築される世界を見るか、という見方の違いなのだと思う。それは小説の読み方というだけでなく、性格自体の反映のようだ。彼は全体を見渡す視野を持っている代わりに個別性を看過してしまう時があるし、私は個別性にこだわるあまりに全体を見通す事が出来ない事がある。彼は私を細かいところにこだわり過ぎると評するし、私は彼を大雑把過ぎると思う。どちらがいい訳でも悪い訳でもないのだろうと考えてはいるのだが、相容れない部分である事は確かだ。高校時代からかれこれ7年の付き合いで、やっと明文化する事の出来た感覚の相違は、文章にしてしまえば何という事もないのだけれど、それによって決してその溝が埋まらないというのも寂しいような、貴重な個別性のような。