管理された楽園と、そこに住む人々の問題。(ネタバレ注意)

先週の話になりますが、シャマラン監督の映画『ヴィレッジ』を観てきました。ちなみに彼の作品は『シックスセンス』も『アンブレイカブル』も観ておらず、辛うじて『サイン』を韓国に行った際に韓国語字幕で観てきた程度です。内容ナンテ全然ワカラナカッタヨ_| ̄|○
そんな私でも『サイン』を見た際に「この人の演出手法は巧いなー」という事は強く印象に残ったのですが、今作においてもその演出の巧みさを感じさせる部分は変わってませんでした。しかし「怖さ」や「サプライズ」という点では少々パワーダウンな印象。これはむしろ、私の視点がストーリー内容やそこに含まれる思想に向いていたからかもしれません。
少々乱暴に言ってしまえば、本作は『トゥルーマン・ショー』と逆のベクトルを持つ作品です。『トゥルーマン〜』では作られた世界からの脱出が描かれますが、『ヴィレッジ』では人工的に作られた世界の動揺とまたそこに閉じ籠る決意が描かれます。確かに『トゥルーマン〜』は視聴率のために全て操作された世界に「知らないまま」「閉じ込められている」人間の脱出劇であり、逆に『ヴィレッジ』では自らの作り上げた「村」に「確信的に」「自ら閉じ籠る」性質を持ちその生活に愛着を持つ人間の葛藤劇である、という相違点はありますが、そこで掲げられている二者択一の問いは共通するものがあると考えられます。かくしてシャマランが選んだのは、自らの幸せを限定された状況の中に見出し、「村」を継承していこうとする人々の姿を中心に据える事でした。
自由に生きる事に至上の価値を見出すという価値観が迷走を続ける中、本作は作られた状況における幸福追求の主体性を表現していると言えるかも知れません。その試みが成功しているかどうかは観た人それぞれの判断に拠るしかないと思います。しかし一つだけ引っかかったのは、最終的に「村」の掟の信憑性が守られ、ひいては「村」自体が守られるために、一人の青年がその供儀として捧げられてしまったという事です。少年のままの心を持ち、ユートピアとしての「村」で生きる事を誰よりも強く願いながら、最終的に掟に縛られて死ぬ少年の存在によって、掟の信憑性は確保されます。「村」の秘密を知る人々は彼を哀れな犠牲者として位置付け、秘密を知らない人々はその死を悼む。その構造の裏に、戦時中の英雄譚のような、それこそ先日の日記でも言及した『デビルマン』における牧村美樹を見るような、少々薄気味悪い印象を私は持ってしまったのです。