ターンオーバー。

さてさて。12日の朝に見つかった男女7人の変死体について、其々の方が抱いていた自殺へのモチベーションが解明されたりされなかったりする一方、マスコミは「インターネットの闇」とかいう言葉を相も変わらず不用意に使用している昨今、如何お過ごしでしょうか。
確かに、それまで顔見知りですらなかった人々が集まって自殺する事が可能になった背景に、インターネットが介在していた事は疑いようがない。インターネットという仲介役が入らなければ、彼ら、彼女らがあの場所に、あのような状況で、あのメンバーで骸をさらす可能性はゼロに近い。しかしそれは、インターネットが「闇」である事を立証しているだろうか。
彼ら、彼女らの自殺へのモチベーションについて、インターネットとの関連性は完全には立証されていない。インターネットという介在がなかったとしても、其々の場所で自殺を図っていたかも知れない。それをただ単純に「インターネットの闇」という言葉で処理してしまう事は、個々の事情や注視すべき問題から目を背けたい、若しくはお手軽に解決策を求める人間が作り出した都合のいい言い訳だ。
インターネットが自殺を促進させる力がある、という言説も支持する人がいる。他にも自殺したい人がいるんだ、という気持ちが、自殺願望を加速させてしまう、と。彼らはこの文脈において「インターネットの闇」という言葉を使う。彼らがそのように称するのは、自殺が「良くない事」として認識しているためだ。彼らが執着する価値基準は「生きる事」である、と考えてもいい。では、ここで少々価値観の転換をしてみよう。自殺がに関する価値判断を一先ず保留し、価値基準を「意志の実現」と設定したとすると、状況は一変する。自殺をしたがっている人にとって、通常の生活においては不可能なその意志をインターネットは実現させてくれるのだ。彼ら、彼女らにとって、この手段の獲得は「闇」どころか「福音」であるのかも知れない。その可能性は誰にも否定できない。
勿論これは、ただの例え話だ。もし自分の家族か知り合いが自殺を考えていたら私は止めるよう説得するだろうし、自殺が実現してしまったら嘆き悲しむだろう。しかしそれは結局自分の感情による行動に他ならない。自殺を志願する彼ら、彼女らの事を救えなかったとしたら自分が負い目を感じる、といったエゴイスティックな感情が私を動かしているに過ぎない。しかしそれ故に、あたかも社会正義を果たすかのような「インターネットの闇」という言葉に、自殺者其々の感情を塗り潰し一律の基準を押し付けようとする傲慢さを感じてしまうのだ。