[リハビリテーション]:「異者」を言語化する慾望、それと困難。

最近久々に田口ランディの『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』というエッセイ集を読み返してみた。取り上げているのは90年代後半の事象、しかも今では賞味期限が切れてしまった感の強い時事ネタが多いのだが、そのうちの一つで、「ロックとヒーリング」というタイトルの短いエッセイがある。X-JAPANのボーカルであったTOSHIが、X-JAPANの解散後、自らX-JAPANの音楽を否定してニュースを賑わせたことについて書かれた文章だ。
この中で田口ランディが説明するのは、TOSHIに対して世間が「理解」してしまった結果、TOSHIは新たな自己実現を探して今の道に至った、ということだった。ロックという反抗の音楽を選び、「誰も理解してくれない」という叫びを続けていたら、いつの間にかそのことを丸ごと社会は「理解」してしまったのだ。

いま、反抗することはとても難しい。自由という体裁のなかで世界は巧妙にシステムを作った。なんでもありに見せかけて真綿で首を締めるような閉塞したシステム。彼はいつのまにかこの世のシステムに巻き込まれていた。 (田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』)

しかしながら、この世間とTOSHIの二者関係を取り上げた文章自体は、TOSHIに向かってどのような対面の仕方をしているだろうか。例えば「世間」の位置に田口の主張、もしくはその主張に読み手が重なった時、実は世間とは別の「理解」をTOSHIに対して行ってしまうことにはならないか。言わば、「世間が理解してしまったことへの理解」というパラドックスのように、TOSHIの主張を語るほどにTOSHIの逃げ道はなくなってしまう。TOSHIに対して無理に理解しようとする社会へのある種の糾弾の叫びは、他ならぬ自らに向けて帰ってくるのである。
X-JAPANが再結成し、この話題がすっかり過去のものとなってしまった今、このネタの賞味期限はとっくに切れていると言えるかも知れない。ただ、ここに内在する主題――「理解できない(もしくは理解を求めない)対象との接触」が如何に困難か、ということ自体は普遍的な問題意識として抽出できると思う。

こう考えた時に思い出されたのは、佐藤友哉の「慾望」という短編に対する森田真功の評論である。佐藤友哉は「慾望」の中で、理由なくクラスメイトを皆殺しにし始めるとしての高校生たちと、それを常識の枠組の中で理解しようとする教師である〈私〉との駆け引きを中心として描く。森田真功の『異者の攻防――佐藤友哉「慾望」論』と題された文章中で論及されるのは、この教師の視点に如何にして読者が同一化していくか、という過程だ。
当初、徹底して動機が排除されたor欠落した殺戮者である高校生たちは社会の常識の埒外にある異者として描かれる。だが、その異者を常識の枠組の中へ引きずり下ろすことに、ただ一人生き残った教師が敗北した時、それは単に異者との接触の困難さを描くことだけに留まらず、逆に彼らにとって理解できない異者としての〈私〉の姿が浮かび上がってくるのである。

……滝川恵子、春井文慧、水村理志、酒木優一たちに通じる言葉を〈私〉が持ち合わせていないのは、彼らが〈わけの解らない人間〉だったからではない、〈私〉の言葉が通じないがゆえに、四人は、受け入れることのできない徹底的な異者であったのだ、ということもできる。しかし、そこから翻り、四人の側に立って、見れば、〈私〉にとっての〈僕たち〉がそうであるように、じつは〈私〉こそが〈僕たち〉にとって排除されるべき異者だということもありうる。 (森田真功『異者の攻防――佐藤友哉「慾望」論』)

田口ランディのエッセイを最初に読んだ時、私も含めて、読者はTOSHIにとって「異者」であったのだろうか。更に言えば、「異者」という捉え方自体も一つの「理解」に過ぎないのだろうか。ディスコミュニケーション言語化することは、所詮新たなディスコミュニケーションを生み出すだけだろうか。……ことばで理解することには何の意味もないかもしれないとは思いながらも、それでもことばにすがりつかざるを得ない。願いは、言説的に消費されない何かを探すこと。でも、それは一方で、世界がことばで埋め尽くしてしまうこと。何年かぶりに読んだ田口ランディの文章からは、自分の抱える慾望と相似形の姿が遠回りして立ち現れてきた気がした。