物語をどのように自らのものとするか。(承前)

現在、メディアによって届けられる物語の量は膨大なものとなっている。この物語とは単にフィクションを指すのではなく、ニュースなどによって届けられるノンフィクションの物語も含んでいる。その一方で、『自由を考える』の中でも言及されているように、私達が身の回りのレベルで共感を得るような事は少なくなり、メディア上の共感は実生活からは切り離されてしまっている。[東浩紀大澤真幸自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)』p81]結局そのような中で人々が物語から影響を受けるとしたら、その物語を自らの人生としてその内容を完全に引き受けるような形しかない。もし特定の犯罪が「現実と物語の区別がつかない」から起きるとすれば、そのような結果からの事なのではないだろうか。
このように考えると、ニュースに関する噂話や会話というのは、実は事件を加工し自らの物語として引き受けるための過程だったような気がする。確かによく知らない事件やその中の人間に対して無責任な噂を立てるのは場合によっては悪趣味なものではあるし、マスコミよる憶測や推測が被害者を傷付ける事は多々あった。私自身もそれに対する嫌悪感を感じてはいる。しかし事件自体をメディア上の出来事として閉じ込めてしまうのは、また別種の気持ち悪さを感じてしまうのである。問題は、アプローチの方法なのだ。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス) 東浩紀大澤真幸自由を考える―9・11以降の現代思想