「笑い」が見えなくしてしまう事。

4日に映画『笑の大学』を観てきた。役所広司は流石の名演技、稲垣吾郎もその雰囲気に引っ張られるかのようにいい感じに役割を演じていた。笑うところと泣かせるところのバランスというか物語内でのシーンの配分や繋ぎ方に関してもなかなかのもので、映画としての完成度はかなり高い。大ヒットというような作風ではないが、ロングセラーの予感のする観て損のない映画であったと思う。
ただ、映画自体の内容だけでなく、史実や時代背景を考えると少々趣が違うようにも感じた。劇中では笑いを権力に対抗するというか脱力させていくために用いられる側面がクローズアップされる。しかし、例えば古川緑波の最盛期が戦前の日本のファシズム台頭期と重なっているように、笑いという感情的なガス抜きが逆に権力に対するチェック機能までも麻痺させてしまう事がある。そのようにして笑いはファシズムの影が拡大していく様を一時的にしろ不可視にし、そしてその結果肥大し迷走を始めた権力によって厳しい検閲や制約を受ける事になった。確かにそれは笑いに従事していた人々にとって意図せざるところではあっただろうし、本作で描かれているようにファシズムとの闘いを笑いが支えていた部分もあったのだろうが、その一方でその権力自体の強化にもまた笑いは関与していた事は今後を見据える上で忘れられるべきではないと思う。特に苦しい時には、人間は一時的にでも楽な方、楽しい方へと流され易い存在であるから。