そういえば。

昨日の修士論文中間報告会で、「昭和30年代」に対する「懐かし」感覚について発表された方がいらっしゃいまして。
「懐かし」っていうのは、自分が生きてきた時代でもないのに何故か「懐かしい」と感じられてしまうもの、という定義で。
例えば現在コンビニで発売している、「昭和」をテーマにした食玩なんかはもろにこの力場が発生し、人々を浪費に導く、という。


で、そういった風に考えると、色々な作品でモチーフとされている「勝鬨橋を開く」というのも、こういった「懐かし」を誘発する素材として使われている部分はあるのではないかなあ、という話。
勿論それをライヴで見ていたり、自分の体験に基づいて「懐かしい」と感じられる人がいるのも事実…だが。
例えば視聴者の大半がそれを「懐かしい」とは感じられないであろう『こち亀』アニメの劇場版において勝鬨橋を開いたりするのは、こういった「懐かし」感覚の世代を超えた共有を暗に目指しているように見えてしまう。


問題はこういった「懐かし」の感覚の裏でどういった事象が削ぎ落とされているかだ、という点はサブゼミ中でも大いに議論となった。
「古き良き昭和」に公害が多く発生し、また東京五輪の前に安保闘争があった事はそこでは語られない。
人間誰しも見栄があるから、自分達の生きてきた時代を後続の世代に誇りたい、という気持ちは分からないでもないけど、そういった隠蔽によって幸せになった人はあまりいない気もする。
歴史から見た印象論でしかないけど。